夢を見た。
蹴られ、罵られながら慈悲を願って這い蹲る夢だった。
「――……」
ばくばくと暴れる心臓を、自分の身体ごと、痛いくらいに抱き締める。
どくどく、ひゅうひゅう。煩い心臓と、荒い呼吸に入り混じって波の音が聞こえてくる。ざぁん。ざざぁん。ざぁん。ざざぁん……。海の音。あたらしい、日常の音。笑いながら蹴られる事もぶたれる事も無い、安全な場所の音。じとり、と全身を濡らす嫌な汗に今更ながらの不快感を覚え、少女――コアラは小さく、安堵の息を漏らした。
「……ゆめ」
夢だ。夢だった。ただの夢。ほんの少し前まで現実だった、もう終わった日常の夢。
終わった事だ。もう、戻らなくていいはずなのだ。それでも。それでも時折、未だに続いているような気がする。今、ここにこうしている事の方が夢なのではないかと、そんな考えが頭を過ぎる。
夏島が近いのか。夜中でも自然と汗ばむ陽気だというのに、どうしてかひどく寒い心地がした。
タオルケットを頭からかぶり直して丸くなり、コアラはぎゅうっと目を閉じる。両隣で横になっている仲間達の安らかな寝息が、今ばかりは恨めしい。
(だいじょうぶ。……だいじょうぶ)
昔は夜が待ち遠しかった。
コアラを買った天竜人は、少なくとも夜に眠る程度の自由は許していたから。
ふとした気紛れでぶたれる事の無い、殺される事のない夜が来るのを、毎日毎日待ち望んでいた。
ずっと夜が続けばいいと、毎夜願ったものだった。
でも、今は夜が嫌いだ。特に、昔を夢に見たこんな夜は。
――……ぅ……、……ぁ゛……っ……
眠れないまま、何度目かの寝返りを打った頃。船を揺らす細波に、誰かの声が混じった。
珍しい事では無い。珍しいものでも無い。今でこそ落ち着いてはきたが、船に乗ったばかりの頃は毎晩のように聞いていたものだ。コアラ自身にも覚えがある。押し殺した、すすり泣きの声。
幼い身にも習い性になったそれは、かつては子どもなりの処世術であったものだ。もう、誰も怒ったりしないと頭では分かっていても、早々抜ける癖でも無い。へにゃりと眉を八の字にして、コアラはもぞもぞと起き上がる。
さして広い船室でもない。誰が泣いているのかはすぐに分かった。仲間達を起こさないよう、声を潜めて「マコ」と呼ぶ。弾かれたように、幼い背中がびくりと震えた。
「マコ……マコ、ねれないの?」
「……こあ……りゃ、ねぇちゃ……っ」
おそるおそる、といった様子で顔を上げた少年は、声をかけたのがコアラだと気付くと、ぐしゃり、と悲痛に顔を歪めた。コアラより何歳か年下の、魚人族の少年。夜に溶ける色の肌は、元々の色味を考えに入れても青褪めている。
遠慮がちにコアラの袖を握って、唇を噛み締めてマコが俯く。
悪い夢を見たのだろう。夢と現実の境目が覚束無い様子で、がたがたと震えている。
暗い、昏い夜の闇の中。
ぬるい空気に反して、足元からつめたさが染み入ってくるようだった。
二人。互いに向かい合って寄り添っているはずなのに、不思議と少しも暖かくなれない。永遠に、昏くて冷たい夜に蹲っているような。仲間達も、目の前のマコすら、夢か幻だったような気がしてきて、コアラは勢いよくかぶりを振った。(だいじょうぶ。だいじょうぶ……)心の中、呪文のように繰り返す言葉はどうしてか何処か虚しく、現実味が無い。震えるマコの手を握り返して、コアラは自分の手も、同じように震えている事にようやく気付いた。
「…………頭領のとこ、いこ?」
「……ん゛っ……」
痛いくらいに互いの手を握り締める。そうすると、少しだけ落ち着けた。
(……だいじょうぶ、だいじょうぶ、だいじょうぶ……)自分に言い聞かせながら、それでも気付けば小走りに、仲間達を踏まないように合間をすり抜け、船室から外へ出る。ぶわり、と吹き込むなまあたたかい風が、潮を含んで身体に纏わりつく。馴染んだ塩辛い空気が、濃度を増して鼻を擽る。
水平線の夜空で、きらきら、きらきらと星が輝く。
月と星で、甲板は船室よりも遥かに明るい。そのひとの姿は、すぐに見付けられた。
「――コアラ。マコ」
闇夜に浮かび上がるましろい顔が、つ、とコアラ達へと向けられる。
静かに二人の名を呼ぶ声は、いつもと変わらず穏やかだ。
滑るような足取りでコアラ達の前までやってきた頭領に、繋いでいた手が緩む。
「と゛う゛りょぉ゛っ」
泣き出す寸前の声を上げて、マコが頭領に突進していった。見目の細さに反して揺らぐ様子も無くマコを受け止め、抱き上げて、頭領はほそい指先でコアラの目尻を拭う。固くごわついた、でこぼこの皮膚。どんな敵からもコアラ達を守ってくれる、やさしくて強い、手の感触。じわり、と視界が滲む。どっと押し寄せてきた現実感と安堵に、わけもなく叫びたい気持ちになって、コアラは代わりのように頭領の腰にしがみついて顔を埋めた。
マコの泣く声が、頭上から響いてくる。
頭領の手が、コアラの頭をやさしく撫でた。
(だいじょうぶ)
呼吸を許されたような心地がして、コアラはぎゅう、と頭領の腰にしがみついたまま息を吸い込む。
塩辛い潮風と、うすらと漂う血の臭いと入り混じった――あたたかくほの甘い、土の匂い。いのちのにおい。
頭領は何も聞かない。何も言わない。ただ、あたりまえのようにコアラを抱き上げた。ほそい首筋に顔をすり寄せれば、鉄色の髪の間から、反対側に抱えられているマコと目が合う。
涙に濡れた目に見返され、なんとなく気恥ずかしくなってコアラは無言で頭領の肩に顔を伏せた。
ざぁん。ざざぁん。ざぁん。ざざぁん……。
波の音が聞こえる。
いたいことをするひとのいない、穏やかな場所の音が。
遠のいていた眠気が、とろり、とろりとコアラの瞼を重くする。
「……おやすみ」
囁く声は何処までも穏やかに、コアラを包み込むかのよう。
(はい。おやすみなさい、頭領)
怖いものはなにもない。怖い夜はやってこない。
だって、頭領がいる。天竜人より強い、コアラ達を助けてくれた頭領が、ここにいる。
闇の中でもおひさまみたいにきらきら輝く、つよくてきれいな、やさしいやさしいコアラ達のかみさま。
昔は夜が待ち遠しかった。
今は、朝が待ち遠しい。
――悪い夢は、もう見なかった。
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