ギルド・テゾーロの朝は早い。

 まだ夜も明けきらない時間に目を覚まし、着替えを済ます。
 そうして人の気配が希薄な甲板で、夜明けの空を眺めながら新しい音を捕まえるのが、旭海賊団に所属する“音楽家”の一人である彼の日課だった。
 真夜中に酔っぱらい連中の乱痴気騒ぎがあろうと、この時間まで続く事は滅多にない。物見台の当直も、眠気もあって大抵は大人しいものである。常に騒々しい旭海賊団の日々で、いちばん静かな時間帯。

「……♪」

 喉を振るわす。音を出す。
 ほんのひとこえ。ほんの一音。
 テゾーロの奏でたその音は、静寂に包まれる甲板に響き、拡散し、そうして波の音に掻き消されて消えていく。曲作り、歌作りは地道な積み上げだ。天啓が降りてくる時などそう多くは無い。
 たったワンフレーズ、一楽節。それだけで印象はがらりと変わるし、意味も変わる。日常を彩り人の耳を楽しませる楽曲を創り上げる為の、悩ましくも退屈なこの時間を、テゾーロは好ましく思っている。

 脳内に描いたイメージに添って、ひとつ、またひとつと音を重ねる。
 譜面に新しく書き足せるのは、その中でもほんの少しだ。そうやって書き足した音の群れすら、ワンフレーズになってみれば思っていたような出来ではなくてまた振り出し、というのもままある出来事である。どうやら今日は、あまり調子が良くないらしい――まあ、そんな日もある。テゾーロは自嘲混じりに鼻を鳴らした。

 波は穏やか、風弱し。

 グランドラインの天候は気紛れだ。それがこうも安定しているのだから、次の島が近いのだろう。この気候なら、秋島か春島辺りだろうか。そんな事に思いを巡らせながら、船首の方へと視線を向ける。

 そこにあるのは小柄な背中だ。
 テゾーロに背を向け、水平線の方を眺めやって微動だにしない彼等の頭領。
 何かを考えているのか。それとも、ただぼんやりしているだけなのか。

 どちらにせよ、テゾーロには分からない事だ。
 心中を察する以前に、そもそも彼女は、感情を推し量る事からして困難を極める。
 頭領を理解できているとしたら、それは魚人族である副長、フィッシャー・タイガーを置いて他にはいまい。
 政府の通り名そのままに。あるいは、掲げた旗そのものに。
 を名乗る少女のカタチをした化け物は、ただの人間が理解するにはあまりにも純粋で、苛烈に過ぎるのだ。
 その炎に焦がれ、目を焼かれた狂信者はこの船団では珍しくもない。人らしさを持ち合わせないが故の、およそ人間からはかけ離れた無垢な有様。見る者を支配し、あるいは魅入らせる圧倒的暴虐のカリスマ。

 感謝している。彼等奴隷の救い主に。今なお庇護者であり続ける彼女に。
のおかげで、彼は大切な人を取り零さずに済んだ。何にも代え難い宝物を、失わずにいられたのだ。それでも、何故だろう。ギルド・テゾーロは、頭領であるの事が恐ろしくてたまらない。
 そう感じてしまう理由なんて、テゾーロが一番知りたい。頭領を見るたびに、深淵を覗き込んでいるかのような――薄氷の上に辛うじて立っているような心持ちになる、その理由を。

 さらさら、ゆらゆら。

 青色が揺れる。鉄色が揺れる。
 風に遊ぶ長い髪が、陰影を帯びて波間に重なる。明けに煌めく陽光が、海にエメラルド・グリーンの色彩を落とす。さらさら、ゆらゆら。海と空が、光に溶けて入り交じる。境目が、分からなくなっていく。
 海に厭われる悪魔の実。その能力者であるはずなのに、とろけた世界は彼女を恋うているように思えた。
 潮風が、つぅん、と鼻腔を刺激する。数多の命を生み出しては呑み込む海の、生と死が入り交じった密な匂い。
 違和感すら忘れるほどに嗅ぎ慣れているはずだというのに、濃密な大気がひと呼吸のたびにその濃さを増して彼の鼻と口を塞ぐ。ひたひたと、爪先から体温が失われていく心地がした。くらり。脳が揺れる。

「テゾーロ」

 溺れて沈む錯覚は、彼の名を呼ぶ声で終わった。
 顔を上げた先にあったのは、美しいエメラルド・グリーンの双眸だった。
 光差す、いっとう美しい海の色。ましろい面差し、均整の取れた肢体を長い金色の髪がふんわりと縁取って、全身に淡い燐光を纏っているようにも思えた。愛らしい桜色の唇が、やわらかに弧を描く。

「今日は随分ぼんやりしてるのね。スランプかしら?」
「ご名答! ステラには何でもお見通しだな」

 悪戯っぽく瞳をきらめかせる恋人に、テゾーロは殊更大げさな身振りで肩を竦めた。
 それが面白かったのだろう。くすくすと、耳にあまやかな声でステラが笑う。

「もう、大げさなんだから。……はい、未来の偉大な音楽家さん! コーヒーをどうぞ」
「いつもありがとう、ステラ」
「どういたしまして。待っててね、頭領も誘ってくるわ」

 マグカップを手渡して、ステラが軽やかに踵を返す。
 きらきら、さらさら。彼女の歩みを追って揺れる金色が、テゾーロの視界に光の軌跡を描いて動く。
 小走りに駆けていく後ろ姿の愛らしさに、テゾーロはうっとりと目を細めた。

 何より誰より大切な人、テゾーロの一番の宝物。
 出会った時は鎖に繋がれ売られていた、それでも凛と輝いていた美しいステラ。

 今はもう、昔の話だ。

 ステラに声をかけられて、が船首から甲板へ降り立つ。
 朝焼けの光を浴びる二人は、まるで一服の絵のようだ。ヒトの器に収まった、夜明けそのものである小さな怪物が、彼の愛する一等星に寄り添っている。テゾーロの目を眩ませる、果てなく満ちる光の怒涛。

 ギルド・テゾーロは頭領が怖ろしい。
 けれど――同じくらいの熱量で、彼女を敬愛してもいる。

 彼の愛するのはただひとつの地上の星。そうしてその星もまた、彼と同じか、あるいはそれ以上に彼等の頭領を敬愛している事を、テゾーロはよく知っている。全幅の信頼と限りない尊敬と、ほんの少しばかりの畏怖と。
 ステラの抱く感情は、きっとテゾーロのものよりよほど尊く、美しいに違いないのだ。
 におとなわれて、ステラが無垢な天使のようにあどけなく微笑む。

 かつて、ステラに出会うよりも以前のこと。テゾーロにとって空も海も風も星さえも、愛でるべきものにはなりえなかった。幼い日、大事に抱いていたはずの音楽さえ、ガラクタでしかなかった頃が確かにあった。

 今となっては昔の話だ。
 世界は極彩色の万華鏡そのもので、瞬きする間すら惜しいほど。

(ああ、けれど)

 ほぅ、と恍惚に吐息を漏らす。
 ステラが。彼の明星が、こちらに向かって手を振っている。
 こちらへと顔を向けたが。彼等の偉大な朝焼けが、厳かな声で静かに告げる。

「おはよう、テゾーロ」

 頭のてっぺんから、心臓を通って爪先まで。
 全身へ余すところなく広がっていく衝動に、わけもなくテゾーロは泣きたくなった。
 この光景より美しいものなどきっと、何一つとしてありはしない。



TOP