誰しも幼い頃には、自分にとっての“ヒーロー”が存在するものだ。
それはアニメやドラマのキャラクターだったり、時にはアイドルだったりするが、身近な大人が“ヒーロー”を担う場合もある。そして少年にとっての“ヒーロー”はと言えば、それは叔母に他ならなかった。
それも当然だろう。何故かここ数年増加傾向にある変質者達を、ある日は空を高々舞わせ、ある日は地面にめり込ませ、ある日は寒中水泳大会を強制し、と万遍なく警察の世話にならせてきた、少年にとっての救いのヒーローなのだから。
子供の目からしても派手な、まるでアクション映画か特撮さながらの制圧っぷりは、ヒーロー大好きなちびっこのハートをがっちりキャッチするには十分すぎる活躍だった。
「なにさ、これ」
そんな叔母からプレゼントされたものを、少年はまじまじと観察した。
多分、材質は革だろう。茶色や黒を幾重にも重ねたそれには、多種多様な糸で色鮮やかな刺繍が施されている。光を受けて薄墨色に透ける石をあしらったチョーカーは、アクセサリーの相場など知るはずもない少年の目から見ても、なんだか高そうなものに見えた。
「御守りです。御前の身より危険を退けてくれます故、当分の間は付けておいでなさい」
「ふーん……?」
少年に、穏やかに微笑む叔母の真意など分からない。
だが、叔母が間違っていた事なんて少年の知る限り一度だって無いのだから、叔母が「もう大丈夫」と言うまではつけていたほうがいいんだろうと、首を傾げながらもそれを身につけた。
少年と同じ色の目を満足そうに細めて、叔母が優しい手付きで彼の頭を撫でる。
「よく似合っていますよ。士郎もそういう物が似合う年頃になったのですねぇ」
「子ども扱いすんな!」
半眼で手を払いのけ、……ようとしてからぶったので、少年は口をへの字に曲げて叔母のすね目掛けて足を振り上げた。急所を狙った容赦の無い正確な一撃は、しかし目標に当たる事無く空を切る。
「ぎゃんっ!」
こめかみに衝撃が走り、少年は思わず尻餅をついた。
人差し指でぐりぐりと彼の額を押しながら、叔母が視線を合わせて愉快気に笑う。
「そういう台詞はね、教えた歩法と呼吸が日常的にこなせるようになってから仰いな」
「っでぇえ~……くっそ、あんな地味なの続けてらんねーって!
今日こそ! 今日こそは一発当てて、ハデでかっけー技教えてもらうからな!」
腕を振り上げて宣言すれば、「元気の宜しい事」と叔母が感心するように呟いた。
まだまだ努力の意味などよく理解できないお年頃なのである。地味でどう役に立つのかもよく分からない歩き方や呼吸法などよりも、叔母が何人も変質者をぶっとばすような大技の方が興味がわく。
それでも粘りに粘った交渉の末、一撃でも当てる事ができたら教えるという約束を取り付けたものの、少年がこの叔母に掠める程度にも当てられた事は一度も無かった。
「基礎もできていないと云うに、教えられる技などないよ。
それに残念、今日は所用があるの。御前の相手はまた後日、ね」
「えぇえーっ!?」
いつものように色々教えてもらったり、遊んでもらったりする予定だった少年は、寝耳に水とばかりに抗議の叫びを上げて叔母の腰にしがみついた。がっしりと腕と足を回してコアラの体勢である。予定変更に同意するまで解放する気がないのは言うまでも無い。
「いーじゃんかぁー! なぁー! ちょっとくらいあーそーぼーおーぜぇー!」
がっくんがっくん身体を揺さぶり要求する少年に、しかし叔母は堪えた様子も無い。
「御免なさいね」
「やだー! やだやだやだー! あそべったらあーそーべーっ!」
「駄々をこねるのではないの」
固くしがみ付いていたはずの手足を易々解いて地面に転がされ、少年はぷっくりと頬を膨らませて地団太踏む。
せっかく来たのだから叔母は自分と遊んで行くべきなのだ。勿論宿題をやらされたりもするが、一人でやるよりずっと楽しい。来たからには一緒に遊ぶのは、彼の中では最早決定事項だった。じたじたと暴れて遊べコールを繰り返す少年に、叔母は苦笑いして屈みこむ。
「約束を致しましょう? この埋め合わせは後日、必ずや」
「うー……」
眼前に小指を差し出され、少年はむっつり顔で不満の唸りを上げる。
正直に言えば納得いかない。遊んでほしい。
後でじゃなくて今がいいし、用事より自分を優先して欲しい。
けれど、これだけ粘って譲歩してくれる様子も無いのだから、これ以上粘ってみても無駄になるだけだろう。それがなんとなく分かるから、少年はしぶしぶといった様子で差し出された指に自分のそれを絡めた。
「……ちぇっ。破ったら針千本だからな、絶対だぞ!」
「ええ、勿論」
誰にとってもヒーローはいる。彼にとってのヒーローはいる。
だから少年は希望しない、“叔母”以外のヒーローを。
だから少年は望まない、両親以外の庇護者など。
■■ 士郎は知っている。
彼のヒーローは誰にも負けたりなんかない、絶対無敵のヒーローなのだと。
■ ■ ■
冬木ハイアットホテル。
それは冬木においてもっとも格式高く、そして来たる“原作”において衛宮 切嗣によって爆破解体される運命が確定している、いろんな意味で名高い高級ホテルである。その爆破解体の主な原因である聖杯戦争参加者、イギリス時計塔の由緒正しい魔術師ケイネス・エルメロイ・アーチボルトが最上階のワンフロアをまるまる貸切にして仕上げた魔術による“要塞”にて、霊体化したランサーのサーヴァントは、慎ましく主の近くに控えていた。
『……んー。やっぱり飲食はその土地由来のものが一番だねぇ。
自然と向き合い、季節を読み、与えられた恵みを受け取ってこそ、世界への感謝と畏敬が生まれる。
ディルムッドもそう思わない?』
そのはずであるというのに、これは一体どうした事か。
足元に広がる草原は生命の息吹も鮮やかに煌めき、空は何処までも透き通るように深く、青い。
風は優しく頬を撫で、燦々と降り注ぐ太陽は何処までも慈悲深く暖かで。見通す地平線にその偉容を誇るのは、生前慣れ親しんだアルムの砦だ。懐かしくも胸を締め付ける、今や遥か彼方に在るはずの故郷の情景。
けれどそれを裏切るように、ディルムッドの前には今までいたはずのハイアットホテル、そこに誂えられていたはずのテーブルと、白磁のティーセットが鎮座していた。対面で親しげに声を掛けてくる女に見覚えは無い。ゆえに当然の反応として、ディルムッドは気付けば腰掛けていた椅子を蹴って、後方へ飛びずさった。彼の武器である二本の槍を油断なく構えながら、ディルムッドは警戒を込めて誰何する。
「……主の工房にこうも易々と侵入するとは。貴様、キャスターか?
このように堂々と姿を見せるとは、女ながらに見どころのある奴だ。聞こう、名を名乗れ」
ディルムッドの言葉に、濡れたような美しい黒瞳を瞬かせ、女は品良くコロコロと笑う。
『うっふふふふー。うんうん、オスカーのお友達はやんちゃだねぇ。元気いっぱいで何より何より』
「……オスカー、だと?」
敵愾心というものを感じさせない女性の様子、そして何より生前親友であった男の名が出た事に、ディルムッドは目を見開いた。聖杯戦争という舞台で、友の名を聞くとすればその示す意味はひとつしかない。
「貴嬢、もしやオスカーのマスターか!?」
『ぶっぶー。あの子はこの聖杯戦争には参加していないよ。
と言うか私の知る限り、君以外にケルト由来のサーヴァントは今回、一人もいないかな?』
ティーカップをソーサーに置いて、女は悪戯に瞳を煌めかせる。
己から名乗るつもりは無いのだろう。眼前に広がる情景、そして女の妖精めいた――否。悪戯好きそうに輝く眼差し、何処か人理を乖離した有り様、嫋やかに美しい容姿。それら全ての特徴が、養父である妖精王やその眷属達。妖精を、どうにも想起させて止まない。しかし、妖精だとすれば何故ディルムッドに関わってくるのか。親友の名を出した以上、その縁者である可能性もあるにはあるが、そうであればなおさら、心当たりの無い事が解せなかった。
「貴嬢は一体……」
『んー。良い機会だから、御礼を一言、言っておきたくってねぇ』
「礼?」
ますます困惑した表情になるディルムッド。しかし女は意に介した様子も無い。
『グラニア姫を浚ってくれて、ありがとう』
「――ッ!?」
グラニア姫。
それはディルムッドの妻であり、主君に嫁ぐはずだった女の名だ。
誇りであり、汚点でもある出来事に関しての礼に、ディルムッドの顔が困惑と驚愕に彩られる。その様子をくすくすと笑って眺めながら、金色の髪の女は、可愛らしく小首を傾げて見せた。
『まぁね? 仕方ないのは分かってるんだよね、あのひと寂しがりだし、立場だってあるし。
マーニサーの事もあるからさ、いちいち焼いてても、って思うけど……ほら。腹立つものは立つし、嫌なものは嫌だし。だから“どうもありがとう”、ディルムッド・オディナ。貴方のおかげで、余計なやきもちを焼かずに済んだ』
“立場のある”“あのひと”。
“マーニサー”。
“やきもち”。
それらの言葉の意味する所に。意味する人物に思い至り、ディルムッドは愕然と目を見開く。
「まさか貴嬢、いや、貴方様は、我が王の――」
『祝福をあげようディルムッド・オディナ。君が“運命”の侭に、哀れな最後を遂げない為に。
そして何より、君達が私の邪魔をする事なんてできないように』
傲慢に。高慢に。
かつて妖精であった転生歴を持つ女、は威厳を以て宣言する。
言葉と共に世界が揺らぐ。がらがらと、音を立てて崩れてゆく。
嫋やかに白い指先がディルムッドを指差して、慈愛に満ちた唇が、それが慈悲であるかのように、かつての誓約を彼に、想起させる。
『君は“婦女子の懇願を断れない”』
『だから、私も断れないお願いをするとしよう』
『セイバーと戦い、主の下へ戻ったなら』
ぱっくりと開いた奈落の穴。
そこへ成すすべもなく落ちながら。
『一昼夜。君の主と一緒に、ホテルから離れたりしないでね?』
ディルムッドは、その“懇願”を呑まされた。
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