舞い散る花びら、鮮烈な世界。
 今でも、あの人の記憶はひどく優しい。

 マサラの街の外れ。西の森近くには、ぽつん、と大きな木が生えている。
 誰かが植えたのか、いつから在るのか誰も知らない。凛と気高くそびえ立つ、一本だけの桜の樹。春になれば見事な花を咲かせるけれど、他の桜のように実を結ぶ事は無い。ただ、花咲き、散ってゆく桜。
 その樹が“ソメイヨシノ”という、決して実を結ばない品種であるのはつい最近知った事。

「ここは、変わらないな……」

 眩しい光を手でさえぎって、レッドはその光景に目を細める。
 小高い丘、みっしりと茂って春を謳歌する小さな草花、その中に在って偉容を誇る美しい桜。
 長い年月を越えてきた存在だけが持ち得る風格と貫禄を、確かに備えた樹。
 懐かしい記憶をたどる様に、迷い無い足取りで樹の根元へと歩み寄る。

 この場所を誰より愛した人は、そこにはもう、いないけれど。


 かつて、とても遠い距離に感じられた道のり。
 ほとんど毎日の様にこの樹の場所へ通っていたその人の姿を求め、息を切らして駆け抜けた。
 たどり着けば樹の根元で、こちらの意思などお構いなしに寝ている少女。
 深呼吸して息を整え、そっと近付いて。
 無防備極まりない表情のその人の耳元、息を吸い込んでこう叫ぶのだ。

ーっ! あーそーぼーっ!」
「……ん、もうちょっと……」

 彼女が、すぐに起きてくれた事は一度だって無かった。
 けれど諦めなければいつだって、起きて、自分の相手をしてくれたのだ。

「……ああっ、もう! 分かった、分かったってば!」

 自分が、しつこく揺すってねだるのはいつもの事。
 そんな自分を面倒そうに押しのけて、が身体を起こすのも、いつもの事で。

「レッドが来るなんて……そっか、もうそんな時間かぁ……」

 けれど。

 けれどあの日、あの呟きだけは、そんな“いつも”とは違っていて。


 あの日、がいた場所に仰向けになる。
 どっしりとした樹の幹に背中を預け、見るのは薄紅色の花弁の雨。
 その合間からのぞく青と、きらきらした光のコントラストは美しく。何処か、懐かしい色彩を帯びて見えて。

 胸を締め付ける、感情の波。

 懐かしさ、切なさ、喜び、哀しさ、愛しさと。
 混沌として混ざり合い、形にすらならない感情に、レッドはそっと、帽子のつばを引き下げる。

 時の流れに色褪せた想いが、追憶と共に甦る。


「レッド、さぁ。同い年の子と遊べばいいのに、どうして毎回私の所に来るの?」
「たまにはいいじゃん」
「ほとんど毎日来るでしょうが」
「おれにとってはたまだもん。だいいち、昨日はいなかったじゃん」

 いつもの光景。いつもの関係。
 けれど、たった一つ。どうしようもなく、“いつも”と違う事があった。

「……あした、さ。旅に出るんだろ?」

 ある人は、ポケモンマスターになる事を目指して。
 またある人は、旅をして経験を積む事を目的に。

 今日を逃せば、もう、こうして気安くは会えなくなる。

「へぇ、よく知ってたわね? 私が旅に出るの」
「……グリーンに聞いた」
「ふぅん……」

 ほとんどの子ども達が、旅立てる10歳の年齢になったとたんに外へ出て行く。
 そんな中、は同年代の子が旅立つのをただ、見送っていた。
 だから、ずっとマサラにいるのだと思っていた。

 今思えば、あれは迷っていたのだろう。

 オーキド研究所に出入りしていていた彼女は、研究所のポケモン達にとても慕われていたから。
 特に、卵から生まれたばかりのポケモン達は頻繁にの後をついて回っていた。
 旅立てば、そんな彼等としばらく会えない。それがきっと、旅立つ事への躊躇いを生んでいた。
 懐かしい場所が、閉じた瞳の裏にかつての光景を描き出して。
 ひっそりと、微苦笑を浮かべる。

 自分に、旅立つ事を告げなかった彼女。
 いつだって、最後には折れてくれた彼女。

 そんなが行ってしまうのが嫌で、……それでも、素直にそう言うのも恥ずかしくて。
 年上の彼女に、いつだって追いつきたかった。
 “子供”扱いに甘んじながらも、少しでも早く追いつこうと背伸びしていたあの頃。

 早く大人になりたいと、何故願ったのかにも気付かずに。


「……なぁにふてくされてるの、レッド」

 自分の頬に指を押し当て、目を合わせてくれた
 そんな行為に心の何処かで喜びを感じながらも、素直になれるはずも無くて。

「ふてくされてないっ」
「強情なお子ちゃまねー」
「っ子供扱いすんな!」

 呆れるに、噛み付くような勢いで反論をした。
 緩く流れていく風に髪を遊ばせながら、意地の悪い笑みでこちらを見ていた優しい人。

「……ふふっ。うん、そうね。最後だもの、今日は思いっきり遊んであげるわ、レッド」

 少しうっとおしそうに髪をかきあげ、空を見上げて呟く
 そうじゃなくてと反論しかけた自分を遮り、にっこり笑って上を指して。

「ただし。もう少し、コレ見てからね?」
「……?」

 つられる様にして、初めて見上げた“彼女”の視点。
 いつも、にばかり気をとられていて見向きもしなかった光景。


 駆け抜ける風が、帽子を吹き飛ばした。
 ゆっくりと開けた視界が、色鮮やかな桜色に染め上げられる。
 辺り一面を染め上げながら舞い落ちて、ひろがる青空を薄紅で艶やかに色付かせて。
 息をする事すら忘れる程に暴力的に、心を覆い尽くす程に美しく。

 彼女の愛した、変わらない風景。
 彼女の愛した、春の光景。

 この光景を教えてくれた彼女はもう、ここにはいないけれど。


「綺麗でしょう?」

 そう言って得意げに微笑むは、とても美しかった。
 今でもきっと、自由に世界を旅している事だけは確かな、思い出の中の彼女。
 あれから何年も経ち、自分も同じ様に旅に出た。
 グリーンと何度も戦ったり、ジムリーダーや四天王にも挑戦した。
 許せない奴等に出会い、大切な仲間達と出会い、かけがえの無いライバルに出会った。

 彼女もきっと、そうなのだろう。

 自分だけが、この世界に置いて行かれたような喪失感を感じたあの日。
 いつだって先を行く彼女が、妬ましくて哀しくて仕方なかったあの日。

 そんな日々さえ過去に変えて、自分もも“大人”になる。

 立ち上がり、地面に落ちた帽子を被り直す。
 空はもう赤く、沈む夕日に染め上げられた世界はその影をひっそりと伸ばしていて。
 家ではきっとポケモン達と家族が、自分の帰りを待っているはずだ。
 追憶が引き止めるその丘を下り。ふと、レッドは後ろを振り返った。

 赤く染まった世界の中、ただ一人立つソメイヨシノ。
 今はもういない面影に向かって、告げられなかった言葉を紡ぐ。


「 ずっとずっと、すきでした。 」



 遺した想い、受け取ったのは桜花の記憶。



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ヒロインが死人っぽい。(※生きてます)