飢えは既に通り越してもう何も感じなかった。
 ただ耐え難い渇きが喉を舌を胃の腑を灼いて口内までひりつかせる。
 からからに乾ききった喉をせめて唾液で潤したくとも、それすら男には望むべくも無い。
 茫洋とした眼差しは砂の海と晴れ渡った空の境界線を、無目的に彷徨っているのみだった。
 男の求める助けは、そこには無い。
 ただただ広がり続ける砂の丘陵に、重苦しい足取りで足跡を機械的に残していく。

(……みず)

 虚ろな、しかし確かな生への執着を灯した瞳が欲を訴える。応える者はいない。
 男は旅行者だった。この地には観光の目的で来た。
 お気楽気分でピラミッドやスフィンクスを見に来て、そうして悪質な追い剥ぎに遭遇した。
 衣類のみを残してパスポートも所持品も一切合財剥ぎ取られて砂漠に一人置き去りにされた。
 その扱いに、悪態をつく余裕があったのは初日の数時間のみだ。
 昼夜で激しく変動する気温に疲労、飢え、喉の渇きはそんな行為の無駄を悟らせるには充分だった。精神活動にすら人間はエネルギーを消費する。左右前後どちらを向いても変わらない光景、話し相手のいない環境も同様だ、精神的な磨耗を引き起こし、自分の不遇を恨む気持ちすら削ぎ落とす。
 どちらに向かって進んでいるのかすら分からなくなりながらも足を止めないのは、異国の地で干乾び朽ち果てていく可能性へのせめてもの抵抗だ。誰かに発見される可能性が高いとは思えない。
 まだ歩き回っている方が、助かる確率は高いように男には思えた。
 砂の延々と続く世界。
 その中に陽光を反射して存在する、異質なモノが視界に入る。
 とっさに目を凝らして――男は反射的に駆け出した。蜃気楼であるという可能性さえ考慮しない。
 考慮するだけの思考能力など既に奪われている。あるのは圧倒的な本能だ。
 疲労と飢えで歩いているのと大差無い、しかし必死の足取りで男はそれに駆け寄った。蜃気楼では無いらしい。
 消える事も遠ざかる事もしなかったそれは影と、確かな質量を以て砂漠に鎮座している。
 男にはそれに見覚えがあった。間違いない。見間違えるはずも無い。

 自動販売機が、そこにあった。

 激しく照りつける陽光の下、広大な砂漠に存在する自動販売機は驚くべき事だが動いていた。
 ランプが灯り、モーターの駆動音がかすかに響く。
 水が手に入る。否、この際喉を潤せるのなら何だって構いはしない。男は顔を綻ばせ、熱く熱された自動販売機に張り付いて気付いた。そうだ、金。金が無ければ何も出ては来ない。商売としては正しい形だ。これ以上無く。
 所持品は服を残して全て剥ぎ取られていたが、ポケットの中に小銭が残っていた事を男は覚えていた。何か食べるものは無いかとポケットというポケットをひっくり返してまで探したのは記憶に新しい。
 記憶に違わず、小銭は存在していた。
 干乾びた男の唇に、自然と笑みが浮かぶ。
 震える手で、期待を込めて小銭を挿入する。しかし何故か戻ってくる小銭。機械を素通りだ。
 何故。泣きたい気持ちになりながら、男は小銭を投入し直す。戻ってくる。投入し直す。戻ってくる。
 何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も、回数が分からなくなり小銭を掴む事すら困難になった頃。男はようやく、その文字に気付いた。
 この国の文字では無い。故国の文字で書かれたそれは、金額の、単位、だ。
 文字と同じ事だった。理解してしまえば単純だった。単純だからこそ事実は男を打ちのめした。
 そう、その金額単位はこの国のものではなかった。
 文字と同様。男にとっては、故国の通貨単位、だったのだ。

 この国と、故国の通貨単位はまったく違う。使用する貨幣も違う。
 空港で換金し、この国の通貨単位にそろえてしまった貨幣は「お金」と認識される事は無い。ただの、コインだ。

 絶望に限りなく近い、黒い何かが男を支配する。
 男は無言だった。ただ無言だった。無言のままにコインを捨てた。のたのたと緩慢な動作で自動販売機から離れた。外套を脱いだ。そこに砂を詰め込んだ。零れないようにきつく結んだ。
 ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!
 叫び、喚き、吐き出しながら音を撒き散らせて即席の武器を振り回して自動販売機を殴打した。
 連続して叩きまくった。何度も何度もしつこく殴った。殴って殴って殴りまくった。
 尽きかけた体力と気力を振り絞っての行動だった。男の目は血走っていた。おそらくそれは火事場の馬鹿力と呼ばれるものだろう。人間の限界を今、男は突破してみせたのだ。
 鬼気迫る形相は見る者全てを震え上がらせる迫力があった。きっとマフィアでも回れ右するだろう。
 厚いはずのプラスチックが割れる。機械がショートする。金属が折れ曲がる。ぱちぱちと火花が飛んで奇妙に調子外れな音が奏でられても男はそれを止めなかった。殴る殴る殴る。時々蹴る。
 限界という限界を突破し、ヒューズが止み、即席の武器がただのずた袋に変わり果てた頃。
 軋んだ音を上げて、自動販売機の扉がひしゃげ落ちた。
 男はずた袋を放り捨てて扉を蹴り飛ばす。この奥に望んだものがある。喉を潤せる。希望に瞳が輝く。
 細かい仕組みは理解していなくとも、自動販売機を破壊すれば飲み物が取り出せる事くらいは思考の鈍った頭でも理解できている。さぁとうとう水が手に入る! 今度こそ、と希望を込めて、自動販売機に視線を向けて。

 機械仕掛けの箱に、何も入っていない事を知った。

 男の両目が、顔が、絶望一色に染まる。
 「そんなのありか」と唇だけで呟いて、男は膝から崩れ落ちて砂地に伏した。
 吹き抜ける一陣の風が、砂を巻き上げて男と、自動販売機の残骸を大地に埋めてゆく。
 砂漠だけがどこまでも静かに、照り付ける陽光を全身に浴びていた。



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すなにうもれてごきげんよう(残念無念、また来世!)