聞こえるのは潮騒の音、滴る水滴が奏でる音。
 それらは重なり合って響きあい、洞窟に幾重にも反響する。
 洞窟内だけあって少しばかり薄暗く、また、足場もあまりよろしいとは言えない。
 いかにもな不気味な雰囲気を紛らわすように、アチャモは前を行くゴンベに話しかける。

「ねぇ、ゴンベ……じゃなかった。
 ネルは記憶喪失って事だけど、何か少しでも覚えてることってないの?」
「覚えてる、こと……」

 問われて元人間のゴンベは、ううん、と首を捻ってまっさらな記憶を手繰り寄せる。
 正直に言ってしまえば、ゴンベの中にはっきりと残っている記憶は皆無と言って差し支えない。
 自分が“人間だった”という事実だって、感覚として残っていたものでしか無かった。
 名前にしても同じで、“そう呼ばれていた気がする”といった曖昧極まりないものでしかない。

 何処まで辿ってもまっさらな記憶。
 アチャモと出会う前の事は、欠片さえ見えない。

「……駄目、何にも出てこない」

 少しくらい、何か手がかりがあってもいいだろうに。
 見詰めてくるアチャモになんとなく罪悪感を感じながら、ゴンベは通路の先から飛び出してきたシェルダーに容赦なく拳を叩き込んだ。意識を向け直して追撃を加えれば、シェルダーはあっという間に動かなくなる。
 一連の手際の良さに、後ろで見ていたアチャモはきらきらと目を輝かせながら拍手した。

「すごい! ゴンベかっこいー!!」
「え。そうかな。そんなかっこいい?」

 純粋な尊敬の眼差しに、ゴンベは思わず首を傾げる。
 シェルダーを意識するより前に、身体は勝手に動いていた。
 だから正直、アチャモから向けられる賞賛の眼差しは、少しばかり居心地が悪かった。

「うん! ワタシ、ゴンベが動くまで全然シェルダーに気付かなかったもん!」

 興奮気味のアチャモの言葉に、ゴンベは自分の手を見下ろす。
 彼女が敵をしっかりと認識したのは、シェルダーを殴ったその時だ。
 記憶は無くても、身体は色々と覚えているものらしい。
 しかし、同時に違和感もあった。
 それは多分、人間とは勝手の違う身体に由来するものなのだろう。
 だってシェルダーを認識して、向き直った時に思ったのだ。

“あれ、倒れてない”、と。

 無意識に、一撃で敵を倒したと思っていたらしい自分に、ゴンベはそこで気付いた。
 身体の記憶は便利だと思うが、あまり感覚に頼るのも危険かも知れない。

「ゴンベ? どうしたの?」

 じっと手を見詰めて考え込むゴンベに、アチャモははしゃいだ様子から一転、心配そうに尋ねる。
 その言葉に顔を上げて、ゴンベは「大した事じゃないよ」と苦笑いを浮かべた。

「ところでアチャモ」
「なに?」

 こてり、と可愛らしい仕草で首を傾げるアチャモ。
 そんな彼女に、ゴンベは少しばかり気になっている事を指摘した。

「さっきから私の呼び方が“ゴンベ”になってるんだけど……」

 呼びにくいのか、アチャモは何度かゴンベといいかけて言い直したり、言い間違えている。
 言われてアチャモは、「あっ!」と叫んで口に手をあてた。

「ゴメン、ネル! なんだか名前って呼びなれないから・・・・」
「そういうものなの?」
「うん。基本的にみんな、お互いを種族名で呼び合うもの。
 だから時々とっても紛らわしいのよ」
「そっか。名前って人間だけの習慣なんだね」
「人間と一緒に暮らしてたポケモンや、一部の地域なんかだとそういう習慣があるって聞いた事があるけど。
 この辺りではそんな習慣もないし、そもそも人間だって見た事ないもの」
「そうなんだ。物知りだね、アチャモ」
「えへへ。知識にはちょっと自信があるのよ」

 照れ笑いを浮かべるアチャモに、ゴンベも思わず頬を緩める。
 記憶喪失なのに不思議と不安も危機感も無いのは、アチャモのおかげ、なのだろう。
 初対面のはずの自分に対しても裏表無く接してくれるし、ちまちました動きは見ているだけで癒される。
 彼女のためにも、宝物は必ず取り返さなくてはなるまい。

(あいつら、絶対アチャモに謝らせてやる)

 ゴンベはこの洞窟に入っていったドガースとズバットの姿を思い出しながら、笑顔でこっそり拳を握った。
 謝るまでボコる事は、既に彼女の中では決定事項だ。

「でも、名前ってなんだかいいね。ワタシも付けてみようかな」
「へぇ、いいんじゃないかな。何か希望とかあるの?」
「うーん。えっとね、ネルみたいに呼びやすくて可愛い名前がいいなぁ」

 にぱぁ、と笑うアチャモの頭を、ゴンベは無言でぐりぐりと撫でた。
 いきなり撫でられたアチャモはといえば、きょとんとした目でゴンベを見る。

「な、なに? ネル」
「いや、なんとなく」

 ぽんぽん、とアチャモの頭を軽く叩いて、ゴンベは緩みがちな気を引き締める。
 アチャモといると癒されるが、ちょっと警戒も緩んでしまうのが難点だ。海岸の洞窟は水タイプが多い。
 炎タイプのアチャモには辛いだろうから、その分自分がフォローしなくてはいけない。
 そんな事を考えながら、ゴンベは道の先を警戒しながら返す。

「まぁ、ゆっくり決めればいいんじゃないかな? そんなに急ぐことでもないんだから」
「そっか、そうだね。ありがと、ネル!」
「どういたしまして、――

 瞬間、口をついて出かけた“なにか”にゴンベはふと口をつぐんだ。
 “アチャモ”と言おうとしたのに、無意識に言おうとしたのがまったく別の言葉だったのだ。

 それが何か、は分からないけれど。

(私、誰を呼ぼうとしたんだろう?)

 失った記憶。その中にいる、誰か。
 今考えても仕方が無いか、とゴンベは首を一振りする事で疑問を散らす。
 そうすればかすかな違和感は、形を成さずに溶けて消えた。


 なくしたものを、私は知らない。



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(隣り合う姿に重なる違和感。正体を知るのは、遥かに未来。)