きいからきいから、糸紡ぎ。
紡いで継いで、次から次へ、掛けて繋いで織り込んで。
ぎぃこぉばったん、糸を織る。
那由多の果ての、そのまた果てまで果てしなく。
きいから、ぎぃこぉ、
那由多の奈落に巣を掛ける。
世界を織り込み、巣を掛ける。
きいから、ぎぃこぉ、
巣を掛ける。
■ ■ ■
「ああもう、こんな事になるなら素直に“呪いの子”の舞台を見に行くんだった……!」
泣き喚きながらが似合いの重さを込めながらも、吐露する後悔は密やかに。
疲労にもたつく脚を引きずり、薄闇の洞窟の中を女は慎重に、周囲を伺いながらそろそろと進んでいく。
迷路の有名な攻略方法――壁に右手をあてて進んでいけば、いつかゴールに辿り着く――を実践してはいるものの、天然の迷路にあって、それがどれほど有効なのかは疑わしい。
それでも、友人達と散り散りになり、来た道もおぼろげで、現在地もわからず、コンパスも持っていない彼女にとってしてみれば、それだけが唯一、出口への可能性を指し示してくれる知識であった。
声を上げて、友人達を探すことはしない。そんな事をすれば、あの連中に見つかってしまうから。
……そう、“あの”連中。
事の発端は、何の変哲もない。さして珍しくもない話だ。
友人達に誘われて、山登りにやって来た。
本格的な装備を必要とするほど険しい山でもなく、登山道も十分整備された、地元の老人が朝の散歩コースにしているようなその山で、突然の豪雨に見舞われて――偶然にも見つけた洞穴に、雨宿りにと駆け込んで。
何処まで繋がっているんだろう、と。言い出したのは誰だったか。
奥に行ってみよう、と。言い出したのは誰だったか。
暗い暗い穴の奥。
スマホの灯りで行く手を照らし、ほんの少し、好奇心に胸踊らせて。
それで終わるはずだった。現実に、物語のような冒険なんて始まるはずもない。
行き止まりにすぐ突き当たるか、障害物で先に進めなくなるか。
それでなぁんだ、つまらないのと笑いながら、止まない雨に文句をつけて、他愛ないお喋りで時間を浪費する。
漠然と、そんな予想を女も、友人達も皆が思い描いていた。
暗い暗い穴の奥。
前後左右を曖昧にする、どこまで行っても変わらない洞穴は、行き止まりも障害物も何も無く。
いつの間にか、あんなにも激しかった雨音は聞こえなくなっていた。
雨が止んだのか、それとも、音が届かないほど奥まで来てしまったのか。
ただ淡々と、何処までも何処までも果ての無い道行きに、引き返そうよ、と言い出したのは誰だったか。
薄気味悪さに恐怖をにじませ、もう戻ろうか、と言い出したのは誰だったか。
――ねぇ、待って……
気付いたのは誰だったか。
――あそこ、角のところ。何か動いて――
気付いてしまったのは、誰だったか。
物語が現実になったとして。
空想の世界の化物が、目の前に現れたとして。
主人公のように、勇気ある対応を取れる者がどれだけいるものだろう。
知識をそのまま行動に反映して、慎重に、過つことなく最善の選択を選び取る。
よしんばそれが叶わなくとも、生きて還れるだけの運に恵まれるから主人公は“主人公”足り得るのだし、それができないから、端役は端役で終わるのだ。
巨大な蜘蛛の体から、人間の上半身を生やした化物達。
人間部分を差し引けば、映画に出てきたアクロマンチュラに似ていたな……、等と思考できるのはアレ等からどうにか逃げおおせたが故であって、出会ってしまったその時頭を占めたのは、ただ、未知のモノへの恐怖と嫌悪、忌避感といった、理性とは程遠い衝動ばかりだった。
感情のままに誰かが絶叫した。友人達の誰かだったかも知れないし、ひょっとしたら、それは女の喉から出ていた音だったのかもしれない。ただ、それを合図に背を押されるようにして、皆が一目散に逃げだしたのは確かだった。
行きはよいよい、帰りは怖い。
一本道のように思えた洞穴は、その実、行く道だけのこと。
振り返ってみればアリの巣さながらあちこち別れていた道の、何処をどう通ったのか。
気付けば友人達ともはぐれ、暗闇の中に一人きり。
孤独は不安を駆り立てる。恐怖は思考を曇らせて、迷いは足を重くする。
「こんなところで死んでたまるもんか……絶対、絶対に出てやるんだ……!」
そうして必ず、舞台を見に行ってやるんだと――実のところ、幼少期から一番に愛している物語の続編とはいえ初めての舞台、主役もハリーではなくその子どもという事で二の足を踏んでいた――声に出して自身を鼓舞し、萎えそうな足を奮い立たせて先へと進む。
行くか戻るか。直進か迂回か。右か左か。どの穴に入るか。選択に次ぐ選択。
時に行く手の先を通り過ぎていく異形の影をやり過ごし、時に眠る巨大な蜘蛛に息を殺して忍び足。
迷い、選び、脅えながらも先へ、先へと進んでいく。途中に誰かの悲鳴を聞いた。途中に誰かの哀願を聞いた。途中に誰かの足跡を見て、途中に誰かが死ぬのを見た。
洞穴を覆う薄闇が、何もかもを曖昧にする。
誰かを見捨てた。(耳を塞いだ)誰かを犠牲にした。(助けず逃げた)誰かを、誰かを、誰かを、
――友人だったナニカを、叩き殺した(友人の顔を付けた大きな蜘蛛を)(うれしそうに駆け寄ってきた)(私の名前を呼んで)(ちがうわたしの友達はあんな化物なんかじゃない!)
暗い暗い穴の奥。
ささやかながら持っていた、水と食糧もいずれは尽きて。
死にたくないと望むなら、飢えと渇きに苛まれながらも進んでいくしか道は無く。
進む、進む。あちこちにある蜘蛛の糸を払う気力も無く引っ掛けながら、天井を、壁を、足元を、靴を、手を、服を、肌を、カサカサと、カシャカシャと、這い回り遊ぶ小さな蜘蛛達を払う気力も無くそのままに、ただひたすらに前だけを見て進む、進む。
「――ぇ、 ?」
そうして。
転機は突然にやって来る。
洞穴が終わる。開けた視界に飛び込んできた峻厳な山脈が連なる渓谷は、さながら水墨画を立体に起こしたかのよう。けれど、それを観察する間も驚嘆する間も与えられず、光源の無い、太陽も月も見えない薄闇の世界がぐるぐると回る。
何が起こっているのか、なんて。疲れ果て、飢え乾いて思考力の落ちた女に理解できはしなかった。
全身を鈍い痛みが襲う。チカチカと明滅する薄闇の視界に、芒、と幾つも連なった紅い星の群れが不吉に輝く。
ギチリ、と尖った何かが蠢いて、耳をつんざくおおきな音が、すぐ近くで爆発するようにして弾ける。腹が熱い。灼けつく熱が、腹から全身に回っていくようだった。ぎちぎちぎちぎち。尖った何かが熱を増やす。何かが呼吸を阻害する。伸し掛かって上半身を圧迫する。あちこちが熱い。熱くて熱くて熱くて痛くて――
ぶちゅり、
噛み締めた口腔をとろりと濡らした甘露に、女は喉を鳴らしてソレを飲み込んだ。
おおきな衝撃波が全身を震わせる。
蠢く尖った何かと共に、紅い星の群れが。巨大な真紅の複眼が、激しくのけぞって遠ざかる。
誘われるようにして。熱と痛みに朦朧としながら、本能の――あるいは狂気の赴くままに、女は、眼前の巨大な蜘蛛へと食欲に駆り立てられて飛び掛かった。
巣が揺れる。巣が撓む。のけぞった巨大な蜘蛛が振り回した脚の一本が、女を殴って跳ね飛ばす。
「――……!」
巣が遠ざかる。
巨大な蜘蛛が遠ざかる。
視界が揺れる、落下する。
カシャカシャ、カシャカシャとそこかしこから音がする。
水墨画の峻厳な渓谷。その谷間、那由多と続く奈落の那辺に横たわる女のその周囲。
集った無数の蜘蛛達が、カシャカシャ、カシャカシャと囁き交わす。
瀕死の女を中心に、大小異形取り交ぜて、集った蜘蛛達は戸惑ったように、畏れるように囁き交わす。
「アトラク=ナチャ様を」
「なんと……このような事が起きるとは……」
「自らの一片を賜る事を、此の者は我等が神に赦された」
「然り。巣よりこうして生きて出た」
「しかし此の者、瀕死です」
「同意。未だ変成も終えてはおりません」
「このまま毒で死ぬのではないか」
「吾らの餌としての賜物では」
「御自ら毒を与えるのみならず、肉まで拝領して出たというのに?」
カシャカシャ、カシャカシャとそこかしこから音がする。
蜘蛛達が、カシャカシャ、カシャカシャと囁き交わす。
畏れるように、惑ったようにカシャカシャ、カシャカシャと囁き交わす。
「“偉大なる織り手”にすら、肉まで拝領した者はいない」
「御方の巣へ戻すべきか」
「馬鹿を言うな。巣を織るのを邪魔するなど、もっとも許されざる行為よ」
「そうさな。数多と世界を紡ぎ織り、掛け繋いで巣と成す事こそアトラク=ナチャ様の本懐」
「だが、この者――どうすべきか」
「どうするもこうするも、手を出すべきではなかろう」
「変成に耐え抜くか、そのままに死ぬか。どちらにせよ、それは此の者に神がお与えになった試練」
カシャカシャ、カシャカシャ。
鋏が擦れ合う音がする。蜘蛛達の会話が、意味を伴った言葉が、耳を素通りしていく。
「皆、心せよ。この者がもし、変成に耐えきったとすれば――」
全身が燃えるように熱い。
黒と白だった視界が、極彩色のミラーボールとなって踊っている。
飢えがあった。(何かを掴んだ)渇きがあった。(手当たり次第に口へと運ぶ)満たされない。(足りない)
自身の荒い呼吸の音を聞きながら、ずりり、ずりりと地面を掻く。つめたく固い岩肌を、這いずりながら進んでいく。
進むべき方向など分からない。
何処を目指して進んでいるのかも分からない。
何かがぽろぽろと剥離していく。何かが、手をすり抜ける水のように喪われていく。
進む。進む。取り落とし、取り零していく感覚を埋めるために、動くものを掴み、喰らいながら進んでいく。
渇きはいつしか消えていた。飢えも、いつしか消えていた。
それでも喰らう。動くものを。欠けたものを補うために。どうしようもない喪失感を埋めるために。極彩色に回る世界に動くものを、何一つとして区別なく。
■■を見捨てた。
(否定したかった後悔が喪われた)
■■を殺した。
(抱えていたはずの罪悪感が喪われた)
■■を、
( ――人間として生きた記憶が、喪われていく。 )
身の内を焼く熱は、さながら地獄の業火にも似て。
飢えは無かった。(とても飢えていた)渇きは無かった。(ひどく乾いていた)
もがき、這い、先へ、先へと進みながら、どうして進んでいくのか、と今更ながらに疑問を抱く。
カシャ、
不意に出てきた声に、違和感があった。
けれども正体が掴めない。飢えも乾きもあるはずがないのに、何かに飢えて、乾いている。
足りない。(どうして?)ただ、そう思った。(喪われていく)そう感じた。(止められない)口寂しさを紛らわすように、他の蜘蛛達を喰らって(毒を強め)、喰らって(大きく育って)、喰らって(知識を獲得して)みても満たされない。
カシャカシャ、
戯れに声を出してみる。違和感が消えない。
……不思議だった。不可解だった。こうある事が正しいはずなのに、それが正しくないように思えて。
とても大切な何かを取り落してしまった気がして、けれどもその正体が掴めず、彼女は何かを探して進んでいく。
きいから、きいから、
ぎぃこぉ、ばったん、
奈落の谷間は果ても無く。
きいから、ぎぃこぉ、
きいから、ぎぃこぉ、
遠く、近く。紡ぎ織る音だけが木霊する。
世界を織り込み巣を掛ける。それにしか興味を示さないアトラク=ナチャに、本来ならば倣って然るべきなのだろう。
けれど、足りない。足りないままでは糸を紡ぐ気にもなれない。
求めるものを探しながら、母の巣糸を通り道に、行く先も定めず進んでいく。
「―― 、――」
奈落の谷間のその狭間。
蜘蛛の糸の繋がる先。巣へと織り込まれた世界に垣間見たソレに、ドクリ、と心が大きく震えた。
あれだ、と思った。
あれが、欲しかった/欠けたものだと理解した。
あれが、満たしてくれる/喪ったものだと気付いた。
嬉しかった。とても。叫びだしそうなほど、いても立ってもいられないほど!
だから喜びのままに地面を蹴る。喜びのままに駆けていく。
近付いてくる彼女に気付いたらしく、佇んでいたソレが振り返る。目を見開いて静止する。
心が沸き立つ。極彩色の視界が、ひときわ輝き、跳ね、踊る。
――嗚呼、なんて――!
どうしようもなく溢れる愛おしさそのままに。
は、呆然と見上げてくる人間へと喰らい付いた。
TOP
なお記憶は全部吹っ飛んだ模様。愛が残れば問題ないネ!