思考が溶ける。

 あるべき違和感も沸いて然るべき疑問も常識も、ドロリ、ドロリと溶け消える。
 それが当然であるかのように、それがまるで普通の事であるかのように――薄暗い夜の底、茫漠と浮かび上がったぞっとするほど白い肌に見惚れている。
 光に当たるという事を知らないかのような肌は透けるようで、死を連想させるほどに病的だ。
 けれど、呼吸に合わせて上下する豊満な胸も、蠱惑的な腰つきも、むっちりとした太腿も、何処もかしこも肉感的で、知らず知らず生唾を飲み込んでしまうほど。
 男好きがする、という単語をまさしく体現したような躰だ。
 その上に乗った美しい顔もまた、ぽってりとした赤い唇も、目尻の垂れた甘やかな双眸も、壮絶なほどの色香と吸引力を備えていて。

 ――ねぇ、私に触れたいでしょう?

 男の情欲を喚起してやまない、艶めいた声が甘く誘う。
 肉厚な舌が、ペロリと赤い唇を舐める様は思わず前のめりになるほど淫靡に蕩けていて。
 見慣れた自分のベッドの上で、悩ましく白い肢体をくねらせ、頬を上気させて女が手招く。

 ――いいわ、来て? 可愛い人……

 色情と慈愛で染まり上がった目を細め、女がツツ、と指先で頬を撫で上げた。
 甘ったるい吐息と体臭。ベッドのスプリングが軋む。
 組み敷いた女が、逃がさないと言わんばかりにフィルチの腰へと足を絡めた。

 ――……に拝謁できるくらい、とびっきり気持ち良くしてあげる――

 睦言めいた囁き声が注ぎ込まれる。
 やわらかな肌の感触に、服を着たままである事を歯がゆく思った。
 色欲に沸騰する脳の命ずるまま、弧を描く赤い唇に噛み付いて、

「    に  ゃ   あ   ん    」


 目が覚めた。


 ■  ■  ■


 曖昧に溶ける。

 あるべき違和感も沸いて然るべき疑問も常識も、現在と過去との境目と共に溶け、混じる。
 それが当然であるかのように、それがまるで普通の事であるかのように――使う許可を取り消されて久しい鎖で、壁にずらりと逆さ吊りされた生徒達を眺めている。
 どれもこれも、憎々しい顔をしている――規則を何度破ってもケロリとして悪びれず、ホグワーツを汚して頓着もしない問題児共だ。

 そんな連中が雁首並べて整然と、壁に吊り下げられている光景の胸がすくことと言ったら!
 無様に顔をぐしゃぐしゃに歪めて、恐怖に震える姿の滑稽さと言ったら!

 ひ、ひ、と引き攣れた呼吸音が事務室に充満している。
 脅え、震えながら、フィルチの顔色を卑屈な目つきで伺い、一挙一動に注目している。
 どうして逆さ吊りにされているのか? 罰が必要だからだ。
 どうして罰が必要なのか? こいつらがそれに値する問題児共だからだ。
 どうして脅えているのか? そうだ――これから、嫌というほど鞭打たれる事が分かっているからだ。
 日頃の高慢な態度が嘘のように大人しい様は、それだけでフィルチを満たしてくれる。高揚させてくれる。

 だが、足りない。
 そうだろう? アーガス・フィルチ。

 そうだ、足りない。
 まったくもって足りはしない。
 罪には罰を。ふさわしい懲罰を。苦痛こそが最高にして最良の教師。
 惨めなほど、哀れなほど。息絶えかねないくらいの痛みを与え、生意気な鼻っ柱が徹底的に叩き折れるまで指導を享受させてやって。そのくらいしてやらなければ、この問題児共を矯正するなど到底不可能なのだ。
 生徒に甘いダンブルドアはてんで分かっていなくとも、フィルチにはきちんと分かっている。
 これは大人として、子どもに対して当然に行うべき躾であり、義務ですらある崇高な行為なのだ。
 ……正しく魔法使いとして産まれてさえいれば。
 スクイブなどに産まれ損ないさえしなければ、魔法で以て、この連中に礼儀と規律を叩き込んでやれたのに。
 ガチリ。無意識に、食い縛った奥歯が鳴る。
 魔法使いとして産まれ、ホグワーツで学ぶのを許される事がどれだけ幸運な出来事であるものなのか。
 この小童共は、何故、そんな馬鹿でも分かりそうな簡単な道理すら、理解できていないのか!

 だからこそ。
 身を以てそれを学ばせる事が、教師たる君の職務である。

 そう。学ばなければならない。学ばせなければならない。
 痛みで以て。鞭で以て。たかだが百度打ち据えたところで理解はするまい。
 どうしてやろう。爪を剥ぐか? どのように躾けてやろう。両手両足の指でも折ろうか?
 胸を弾ませ口角を吊り上げて、フィルチは鞭を、吊り下げられた生徒に向かって振り上げて、

「    に  ゃ   あ   ん    」


 目が覚めた。


 ■  ■  ■


 混濁する。

 あるべき違和感も沸いて然るべき疑問も常識も、遠い日の夢と願望に呑まれ、沈む。
 それが当然であるかのように、それがまるで普通の事であるかのように――ホグワーツの制服を着て、同じ年頃をした子ども達と一緒に並んで席に座っている。
 さわさわ、さわさわと子どもの囁き交わす声がする。
 ざわざわ、ざわざわと同級生の囁き交わす声がする。
 今日の授業は何だったっけ? 次の授業は何だったっけ? そんな言葉が耳に入る。
 そうか、授業を受けるのか。

 受けて、いいのか。
 わたしが。

 じわじわと、腹の底から喜びが湧く。笑みが自然と込み上げてきて、涙が零れそうになる。
 嬉しい。嬉しくてうれしくて、ふわふわと手元すらも覚束ない。
 ずっと夢見て、望んで、それでも叶えられなくて、諦めきれなくて、ずっとずっと妬んでいた。ここはフィルチの居場所。ここがフィルチの居場所。それが。ただそれだけであるはずの事が、こんなにも嬉しい。
 授業。授業。ホグワーツで受ける授業。何だろう。マグル学以外なら何だっていい。
 呪文学、それとも魔法薬学? 占い学、薬草学、天文学、古代ルーン文字学、変身術、魔法史、錬金術、魔法生物飼育学、闇の魔術に対する防衛学……。

 闇の魔術だよ。

 ハッフルパフの少女が、囁くような声で告げる。
 ああ、そうだったか。そう言われれば、そうだった気がする。

 ほら、もうすぐ始まるぜ。

 グリフィンドールの少年が、ニコニコ笑いながら言う。
 ああ、そうだ。もうすぐ授業が始まるんだったか。
 教室を見回せば、あちこちで塊になって蠢いていた黒い人影の群れが、ばらばらと散らばって、散乱して、ぬるりとあちこちの椅子に収まる。机から落ちる。床の染みになる。手足を生やす。

 前を見ろ。■■先生がいらっしゃる。

 少し緊張したような声で、スリザリンの少年が窘める。
 先生が。オウム返しに繰り返し、フィルチは慌てて背筋を伸ばした。先生の評価がそんなに大事か優等生め! グリフィンドールの少年が骨を鳴らす。せっかくの学びの機会なんだぞ? 少しはフィルチを見習ったらどうだ。スリザリンの少年が馬鹿にしたように首を増やす。

 いいから教科書開きなよ。減点されちゃたまらない。

 呆れたふうに、レイブンクローの少女が目玉を眼窩から引っ張り出した。
 ぞるりと黒板をと降りぬけ、透けた人型が現れる。ぴっちりとした古式ゆかしい魔法使いのローブを着た、天井に着くほど巨大で黒板が半ば見えなくなる程横幅のある首の無いひとがたをした教師。
 ずぞずぞ。ずぞずぞ。前列の生徒がぶよりとたわむ透けた肉の、ぱくりと空いた口腔へと啜り取られていく。
 ずぞずぞ。ずぞずぞ。生徒を啜り喰いながら、教師が威厳のある、厳かな声を響かせる。

 授業を始める。
 アーガス・フィルチ。朗読せよ。

 指名を受け、フィルチは緊張しながらはい、と答えた。
 手にはいつの間にか、黒革の装丁をした、ずっしりと重い古びた本を持っていた。
 表紙には銀色の、見たことが無い文字が書かれている――“グラーキの黙示録 第十二巻”。
 チラリ、と教師を一度見て、フィルチは表紙を、

「    に  ゃ   あ   ん    」


 目が覚めた。


 ■  ■  ■


 カチ、カチ、カチ、カチ、カチ……。

 時計が規則正しく秒針を刻む。
 それを聞きながら、アーガス・フィルチは見慣れた自室の天井を、恨めしくじっとりと睨み付けた。
 とても。とても、幸福な夢を見ていた気がする。
 内容は覚えていない。ただ、抱いた感情だけは奇妙なほど明確に、現実だったかのように心を騒がし続けている。

 あの、ずっと望んでいたものが手の内に収まっていたかのような多幸感といったら!

 夢が素晴らしく、幸福なものであればあるほど、覚めた時の落胆は深く、失望は苦い。
 現実は概して、夢のようには優しく無ければ甘くもない――あと少し、もう少しだけでいい。夢のもたらす幸福感に浸っていたくて、切れっぱしでもいいから続きを見られるのではないかと淡い期待を抱いて、フィルチは頭までシーツの下へと潜り込む。

「ニャゥ、アォオオウ」

 けれど、フィルチの目覚まし時計を務める愛猫は、飼い主シモベの二度寝を許してはくれなかった。
 べしべしべしべし。シーツ越しとはいえ、容赦ない怒涛の猫パンチはそれなりに痛い。意固地に無視を決め込めんでいれば、爪を出しての猫パンチへと変わるのは疑いようもなかった。

「ノリス……ノリス、もう少し……今日はもう少し許しておくれ………」

 それが分かっていて尚、ベッドを出たくないと思うくらいには、今日の夢の名残は格別に甘い。
 ボソボソと哀れっぽく乞いながら丸くなるフィルチ、いいからさっさと起きろ、と言わんばかりに猫パンチの手を止めないミセス・ノリス。
 ベッドにしがみついていれば、眠気が粘り気を増してフィルチの瞼を縫い付ける。トロトロと、意識が霞がかってくる。授業の続きを受けられそうな予感に、フィルチは幸福感に浸りながら夢に身を委ね――

「ギャゥッ!」
「ノリス!?」

 愛猫の悲鳴に、眠気を振り切ってベッドから飛び起きた。
 ドスン、バタンと格闘する音を辿ってみれば、ミセス・ノリスが後ろ脚に嚙みついた何かを、懸命に引きはがそうとしているところだった。カッと頭に血が上る。

「わたしの猫を放せ!」

 ベッドサイドのスタンドを掴み、ミセス・ノリスに噛みついたソレへと振り下ろす。
 何度目かの殴打で、ソレは虫のように痙攣し、くたりと動かなくなった。
 フーッフーッと鼻息荒くソレを忌々しい気持ちで睨みつけて、フィルチはミセス・ノリスを抱き上げ毒づく。

「まったく、悪趣味な玩具を持ち込みおって!」

 ホグワーツの生徒が、規則を破って持ち込んだ玩具を没収・保管するのはフィルチの仕事の一つだ。
 誰が持ち込み、誰から没収したのかは忘れてしまったが、ミセス・ノリスの後ろ脚に噛みついていたソレも、そうした玩具の一つであった。
 勝手に動き回っていたらしいソレに、さしたる関心も持たず――魔法界の玩具にはありがちな事だ――誰とも知れない生徒を罵倒しながら、フィルチは噛みつかれていた後ろ脚の様子を見る。血が滲んで痛々しい。
 ナァウ、と訴えるように鳴いて頭をすり寄せる愛猫をあやしながら眉を下げる。

「おおよしよし。可哀そうに、さぞ痛かろう。すぐ医者に診せてやるからな……」

 ミセス・ノリスを抱え、フィルチが立ち去っていったその背後。
 悪趣味な玩具――牙のびっしり生えた口を持った人間の手が、夢のように溶けて、消えた。




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POW判定全敗明日はどっちだアーガス・フィルチ VS 勧誘()がしつこいイゴ様信徒 VS 私の飼い主シモベだっつってんだろ(怒)なミセス・ノリス \ ファイッ /