ああ、来てくれたんだね友よ! なんたる僥倖!
 わたしの手紙を読んで駆け付けてくれたのだろう? そんな顔をしないでくれ、分かっているとも。確かにわたしは裏切り者だ、裏切り者だが――それでも君達はわたしのために駆け付けてくれた! これほど嬉しいことはない!!
 許してくれ友よ、わたしはあの時どうかしていた。闇の帝王への恐怖で頭がどうにかしていたんだ。
 ――ああ、ああ、ああ! 勿論だとも勿論だとも罪は償わなければならない裁きは受け入れるとも死刑を! 死刑を! 一刻も早い死の安寧を! 何故わたしはネズミに身をやつしてまで生き延びてしまったのか――秘密を守って口を噤んで殺されていた方がまだしもマシだったとも、ええ、分かっています分かっています身の程はよくよく弁えておりますお許し下さいお許しくださいきちんと罰されます弁えております死にます速やかに死にます死刑にしてくださいなりますだからゆるしてくださいおねがいしますおねがいしますおねがいします……。

 聞いているのだ。

 わからないかいシリウス。吸魂鬼ディメンターさえここへは近寄りたがらない。
 ――いるんだ。ずっと、ずっとずっとずっとずっとずーっと、ここにいるんだよリーマス。わたしを見張っているんだよ。だから吸魂鬼ディメンターも近寄りたがらないんだ。分かっているからね。
 どうして理解してくれない!? わたしがありもしない妄想に脅えているとでも思っているのか!!
 ああそうだお前たちはいつもそうだ友達面した裏で出来が悪いと見下して! 嘲って!! 馬鹿にして!!! わたしの意見など馬鹿の妄言だと思っているんだろう、恐怖から来る譫妄だとでも思っているのだろう!!!!
 いいか――いいかよく聞け。聞くんだ。
 いるんだ。いるんだよ。分かってくれよ。闇の魔法じゃない。そんなチャチなものじゃあないんだ。もっと恐ろしい、もっと深い場所のものなんだ。それが――それらが、ずっといるんだ。
 ……最初からね。おかしかったんだよ、ここは。
 シリウス、君、吸魂鬼ディメンターが落ち着きなく右往左往する様を見たことがあるかい。ああ、そうだ。あの忌まわしくも邪悪な闇のものども。絶望のともがら。わたしがここに収監されてからずっと、あれらは明らかに緊張して、不安と怖れを足取りにそのまま反映していた。
 吸魂鬼ディメンターは恐怖を知らない? いいや、あれらも恐怖は知っているさ。ただ、世の大抵の物事はあれらにとっておそれるべきものではなく――ここには、あれらの恐怖に値するものがある。それだけなんだ。
 ……それが何か、だって? そんなもの。見れば分かるじゃないか、リーマス!
 あちこちにいるんだ当然のようにいるんだそれに疑問を持つ事などないほど当然のようにあそこにもここにもそこにもどこにでもいるんだいない場所なんてないんだ奴らはあちこちにいて巣を作って――あああああ!!

 ……夢を見るんだ。この上なく怖ろしい夢を。
 わたしはぼんやりした薄闇の中でゆらゆらと揺れながら、冷たい墓土に塗れて立ち並ぶ墓標を眺めているんだ。
 そこでは、わたしより一回りも二回りも大きな蜘蛛――アクロマンチュラ達が、芳しくも赤い、血色の花びらが空から舞い落ちる中ではしゃぎ回って歌っている。
 歌。そう、歌なんだ…………歌っているんだよシリウス……くが、うぐるぅううあ、なぷるむ……歌っているんだ、賛美歌を………神を讃えよ、偉大にして愛深き女神よ………んぐるうぅうういえ、いあ……くなぁ、あすぐい……。

 ――あんなものが神であるものか!!!!!

 ゆるしてくださいゆるしてくださいゆるしてください。
 そうだあの日だ、あの日の出来事なんだよ夢は。ただの夢であったならどれだけ良かった事か……!
 あいつだ、あいつが引き込んだ。あの裏切り者、あの狡猾な、恥知らず、抜け目ない、帝王までも売り飛ばして一人だけひとりだけどうしてあいつだけ違う違います本心ではないのです言葉の綾です許してください神よ神よ神よお助け下さいお救い下さいゆるしてゆるしてゆるして、はい。裁かれますので死にます。死ぬ時には許して下さるはずと。はい。はい。はい。はい。
 アクロマンチュラ達がね。カシャカシャ、カシャカシャと鋏を鳴らすだろう。あれと歌が交じり合った賛美歌が、脳髄を引っ掻くんだよ。ずうっと。ずうーっと。反響して、内側から響いてくるんだよ。
 ぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃ響いているんだ。尾を引いて。反響するんだ。悲鳴が。死喰い人デス・イーターのか細い悲鳴が。祝いの食卓に供された。幸いなるかな。はい。とても幸運なことです。
 あの墓場で腸を食い荒らされて血を啜られてあれらは貪り喰らっていたんだ。覚えているとも。見つからないだろう、彼等は行方が知れないだろう? ――当然だろう、肉片一つ残さず食い尽くされてしまったんだから!
 あれからだ。あれからずっと、アクロマンチュラだけじゃない。蜘蛛たちのばか騒ぎが続いているんだ。
 力強くはっきりと、あのカシャカシャカシャカシャという音で会話を続けているんだ。
 耳を澄ませるまでもない。君達にも聞こえるはずだ。聞こえて然るべきだ。
 あの――あの、悍ましい蜘蛛どもの嘲笑!
 夢は続いているあの日の宴は続いている墓土と死臭に塗れて続いている。
 あの墓地とこの牢獄と何の違いがあるだろうか? いいやありはしないとも、同じだ、同じ、同じ同じ同じ同じ、まったくもって同じなんだ――同じなんだよ! どこだろうと、そう、ホグワーツだって、ダンブルドアだって――わたしたちはずっと、ずーっと、皿の上で食われる順番を待っているんだよシリウス!!!! なぁ!!!!!!!
 どうしてだろうね? 恐怖は感情をマヒさせてくれる――闇の帝王といる時、そうであったように! ――けれどわたしはまったくもって正気のままだ――分かるかい? そう、そうだ……神がそれを望まれた。

 分かっています分かっています身の程はよくよく弁えておりますそうあれかしと望まれた裏切りの罪の清算をお望みなのです分かっておりますお許し下さいお許しくださいきちんと罰されますお許しくださいどうかどうか弁えております死にます速やかに死にますだからゆるしてください魔法界の法に則って殺してください死刑になりますなるますどうかゆるしてくださいおねがいしますおねがいしますおねがいします……。
 賛美歌が聞こえる。おお、神よ――偉大なる女神、いと尊き御方、蜘蛛どもの盟主! ン・カイにおわす大母神マグナ・マテルの御使いにして代理人! むぐるぅなふ、いあーる……んがあ、ふんぐるい……はい、はい、はい、はい、はい、はい。弁えております弁えておりますだからどうかお許しを。お慈悲を。
 ――おお、友よ。シリウス、リーマス。これは夢か? 現実なのか? 分からない、分からないんだ友よ、友よ!
 食卓なんだ。皿の上にいる。だから逃げられるはずもないんだ。分かってくれるかい友よ。
 蜘蛛の巣からは逃げられない。聞こえるだろう、あの侮蔑的で陰険な足音が――逃げ場は無い――賛美歌が、カシャカシャと、蜘蛛どもが、生者も死者も貪り尽くす貪欲――呪われてあれ……違うわたしは喰らっていないわたしはそんな悍ましい、人が人を喰らうなど――違うわたしは下賤なドブネズミではないんだ!
 わたしはあの連中とは違う! 満たされることのない飢えを抱えて、呪わしいあなぐらを浅ましく彷徨ったりはしていない!! いないんだ!!!!
 分かっているとも罪深いことをした許されない事をした分かっているとも逃げませんちゃんと罪を償います嫌だン・カイの奈落、大母の巣がわたしを――ああああああああお許し下さいお許し下さい!!!!
 友よ、お願いだ慈悲を、ハリー……そうだハリー・ポッターの言葉ならば聞き届けて――ああああ神よ、神よ! ふんぐるい……るぃあえ……くぅくう………。


 ■  ■  ■


 魔法使いの牢獄、アズカバン。
 そこから出て、陽の光を浴びた時の二人の途方もない安堵の深さたるや、どれほどの言葉を弄しても言い尽くせはしないだろう。
 瞬きの合間にこびりつく闇には未だ、収監されたかつての友。裏切り者のピーター・ペティグリューの姿が焼き付いている――皮膚は萎び、髪は残らず抜け落ちていた。痩せこけて眼窩の落ち窪んだその顔貌は、まさしく生きた骸骨としか形容しようが無く。そこにかつてあった、ネズミめいた小男の要素は欠片も残っていなかった。
 まるで別人に成り代わったかのような有様に、かつて親しんだ学生時代の面影も、再会した時の憎々しくも卑しい目つきも伺えず――それでいて両の空洞では、気狂いめいたギラギラとした地獄の熾火が、見る者をたじろがせる熱量で燃えていた。ひきつれて涸れた声が、隙間風のように欠けた歯の奥、口腔の底からひょうひょうと響く不気味な風の音となって不気味な繰り言を二人の耳に吹き込んでくる……。
 意味の通らない妄言としか思えない言葉の羅列は、けれど奇妙な確信に満ち満ちており、背筋を寒からしめる薄気味悪さを湛えていた。現実感を置き去りにした悪夢の残滓から逃れるように、二人の足取りは常よりも早い。

「そういえば」

 殊更に平静を取り繕った声音で、口火を切ったのはシリウスだった。

「ハリーの調子はどうだ。学校で倒れたりはしていないか?」
「ああ。気にかけて見ているけど、特に具合が悪い、という事も無いようだよ。元気そのものだ」
「そうか……なら良かった」

 シリウスの名付け子――ハリー・ポッターは去年の今頃、一度死んで甦った。
 それから今日に至るまで不調らしい不調は見受けられないが、それでも、学校という目の届かない場所にいる親友の遺児を案じるのは当然の事だろう。
 あの日、戻ってきた時のハリーは間違いなく死んでいた。
 何の障害も残らなかった事は、正しく奇跡と言って良い……何せあの日の一件。ハリーが一度死に、ピーター・ペティグリューが収監されるに至った事件の経緯には、あまりに多くの謎が纏わる。
 本人が〝死んだ〟はずの人間であった事を差し引いても、同じく死んだと思われていたレギュラス・ブラックの登場に、あの墓場に残されていた、死喰い人達と思わしき残骸の数々。復活したヴォルデモートの、あまりに凄絶な形相をした死体……。
 現場に居合わせたルシウス・マルフォイの証言は、確かに筋が通ったものだった。レギュラス・ブラックの証言とも矛盾しない。しかし彼等もまた、死喰い人デス・イーターと目されていた人間だ。
 そのまま鵜呑みにはできないが、さりとてハリーはあの日の記憶が曖昧で、覚えている事も多くは無かった。裏付け調査で出てきた証拠の数々も、一つ一つは確証に足らずとも、数を重ねれば説得力もいや増すというもので。

「リーマス。ピーターは、このまま死刑でいいと思うか?」
――

 あの墓場で、何が起きたのか。
 ピーター・ペティグリューもまた、それを知る生き証人である事に違いない。
 ルシウス・マルフォイの証言とも、レギュラス・ブラックの証言とも、現場に残されていた証拠の数々とも矛盾する――明らかに狂人の妄言としか思えない、けれど内容に一貫性を保った、薄ら寒くも真実味がある証言の。
 信じるに値しない、と一概には切り捨てられない。けれど、信じたくはない、と本能的な忌避感が訴えかけてくる。
 らしくもなく迷いに満ちたシリウスの問いに、リーマスは難しい顔で視線を彷徨わせた。

「……ハリーとエバンズさんは、どちらでもいい、と言ったんだって?」
「ああ。それは、あいつに長く苦しめられたわたしの権利だ、と」
「なるほど。それならなおさら、君の気が済むようにすべきだ」

 ピーター・ペティグリューは数多くの罪を犯した。
 被害者側からの弁護があったとしても、終身刑は免れないだろう、と言い切れる程度には罪が重い。
 ただ、それは誰かしらの弁護さえあれば――それが本人にとって幸せかどうかはさて置いて――死刑にはならずに済む、という事でもある。
 妹を殺されたペチュニア・エバンズと、両親を殺されたハリー・ポッター。二人がそう言ったなら、シリウス・ブラック以外の誰にも、ピーター・ペティグリューの生死を定める権利は無い。例え、古くからの友であるリーマスでも、だ。

「そうか……そう、だな……」

 自分に言い聞かせるように、引っ掛かりを無理矢理飲み下すようにしてシリウスが頷く。
 そう。どれだけ違和感があろうと、飲み込むしかないのだ。証言者に対する不信はあれど、状況証拠は十分で。
 狂人の妄言など、耳を傾ける価値も無い。足を運ぶほどの価値も無かったと、冷笑と侮蔑を抱えていて然るべきなのだ。

 ――食卓なんだ。皿の上にいる。だから逃げられるはずもないんだ。分かってくれるかい友よ。……

 だから。
 だからあれもまた、下らないと一笑して、闇に葬られるような妄言に過ぎない。
 カシャカシャ、カシャカシャと鋏の音で言葉を交わしながら、彼等を待ち構えている蜘蛛の怪物などいるはずがない。
 吸魂鬼ディメンターすらも恐れる悍ましい怪物など、実在するはずがないのだから。




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クトゥルフ神話「壁の中の鼠」オマージュ、のつもりですがちゃんとオマージュできてるかどうかは謎。許されたし。