ネルが、“人間だった頃”の記憶を取り戻した。 “ポケモンになってから”の全ての記憶を、忘れ果てて。 「……本当に良かったのか?ヒノ」 「うん。だって、元々ネルは未来から来たんだもの。これが一番だと思ったのよ」 ぷくぷく、ぷくぷくと浜辺のクラブ達が海へと向かって泡を吹く。 海の光と、沈んでいく夕陽。 赤く色づいた境界線を漂いながら、無数のシャボン玉がプリズムのように煌めいている。 普段ならばぼんやりと見惚れる幻想的な光景には見向きもせず、アチャモは笑顔のままで頷いて。 対照的に険しい顔を崩さないジュプトルは、無言のままに歯を食いしばった。 背後に広がる時空ホールの前では、話題の中心であるはずのゴンベが、所在無さそうに立ち尽くしている。 桃色をしたセレビィが、アチャモの目を心配そうに覗き込む。 「未来でも、記憶が戻らないかは頑張ってみるわ。でも、………ひとりで、大丈夫?」 「ひとりじゃないよ、イデア。 だって、チームのみんなはずっと一緒だし……ギルドやトレジャータウンのみんなだっているもの!」 だから、だいじょうぶ。 笑顔をほんの少しも変化させず、言い切るアチャモ。 ――――まるで、笑顔の見本のよう。 出かかった印象をかろうじて舌先で押しとどめ、代わりのようにセレビィはきゅうっと眉間を寄せる。 そんなセレビィに、アチャモは困ったように首を傾けてみせた。 「やだな、ほんとに大丈夫だってば。 ネルが未来に行っちゃうぶん、ワタシはリーダーの代理としてチームを守っていかなくちゃいけないもの。 落ち込んでなんていられないし、やる事だっていっぱいあるのよ?心配ないよ」 「……………そう。そう、………ね」 今にも泣きそうな顔で微笑んで、セレビィはぎゅっとアチャモを抱きしめる。 希望は捨てられない。けれどセレビィもアチャモも、それが途方もなく労力を必要とする事だと理解していた。 無くしていた記憶の間隙。ポケモンとして生きて、確かに在った記憶。 “人間”としての記憶に押しつぶされるように――――消えてしまった、思い出。 喪われたものを取り戻すための代価は大きい。それは、彼女達が一番よく知っている現実だ。 無言だったジュプトルが、佇むゴンベを振り返ってこちらへ来るようにと促す。 「ネル。別れのあいさつくらいして行け」 「ああ、そうか。お世話になったんだったね」 何でもない事のように呟いて、ゴンベはセレビィに抱きしめられたままのアチャモに微笑みかける。 その笑顔を見て、ヒノの身体がこわばるのが、セレビィには手に取るように分かった。 そっと抱きしめた身体を離し、けれど手は握ったままにアチャモの様子を窺う。 アチャモはといえば、貼り付けたような微笑みを更に凍らせていた。 その事に気付いていないわけでもあるまいに、それを気にせずゴンベはアチャモに頭を下げる。 「時を取り戻す手助けをしてくれて、どうもありがとう」 「――――う、ん」 「おかげで世界が救われた。本当に、感謝してるよ」 ジュプトルが天を仰ぐ。 どちらかといえば彼は感情の機微に疎い方だったが、それでも。 それでも、そんな通り一遍のうすっぺらい礼を、アチャモが求めている訳が無い事が理解できた。 たとえそれが、“見ず知らずの他人”に対しては正しい礼であったとしても。 アチャモに握られたセレビィの手に、更に力が込められた。 かろうじて笑顔を揺るがせる事はせずに、アチャモは絞り出すような声で返答する。 「…………………どういたしまして」 当たり障りのない会話。 それが、今の彼女達の距離だった。 「―――――……そろそろ、時間だわ」 セレビィが顔を俯かせたまま呟けば、それに応えるように時空ホールはぱっくりと開いた口を波打たせる。 最後にセレビィは、ひときわ力強くアチャモの身体を抱きしめて。 「………元気でね。ヒノ」 「イデアもね。ジュプトル、ネルの事…頼んだからね?」 「ああ。約束する」 力強い返答に、アチャモは微動だにしなかった微笑みを少しだけ崩して、安堵を滲ませた。 けれど、その安堵を見せたのも一瞬の事。 すぐに素の感情は、笑顔という仮面で跡形も無く覆われる。 絶対に、笑って見送るのだと。 心に決めた誓いの通りに、アチャモは虚ろな笑みを湛えてかつての相棒だった相手と向き合って。 そうして、決定的な別れの言葉を口にした。 「……ばいばい。ネル」 「さよなら、ヒノ」 時空ホールが消え失せて、静寂の満ちた砂浜で。 取り残されたアチャモの少女は、喪った友を想って崩れ落ちた。
泡沫は影を残さない
キミが遺したものすべて、ワタシは残らず抱いて往く。 TOP |